当台本原稿は私が地域おこしとして指導してきた福島県西郷村の歴史掘り起しをベースに、講談台本として書き下ろし、講談協会理事で講談師の一龍齋貞心師により、現地にて読み聞かせたものです。今後はあらゆる機会を設けて発信したいと考えています。応援お願いします。
 
作 :二瓶長記
講談:一龍齋貞心

<序章>
 合唱曲が場内いっぱいにながれてくる。

♪ 甲子高原の 雪解けて  阿武隈川に 春の音
  自然豊かな 西郷村に  戊辰桜の 言い伝え
  聞いてうなずく 子どもたち 窓から見える 桜の木
♪ 会津兵士が 負傷して  小学校の 裏の山
  清水の沢に 隠れていたが  明日をも知れぬ 其の命
  そっと助けた 村人へ  お礼に植えた 山桜

 頃は、江戸は徳川幕府の末期でございます。
 幕末の剣豪・森要蔵は、今から二百年ほど前の文化七年、熊本藩士・森喜右衛門の六男として、江戸芝白金台の細川家中屋敷に生まれました。
 森要蔵は、江戸の剣豪と謳われた千葉周作の神田お玉が池の北辰一刀流、千葉周作の道場「玄武館」にて修行をしておりましたが、要蔵は入門するや忽ち頭角を現し、稽古を重ねるうちに稲垣文次郎、岡田金平、海保帆平らとともに、千葉道場四天王のひとりと称せられるようになったのでございます。
 玄武館には幕末動乱期に活躍した浪士・清川平八郎や山岡鉄舟などもおり、蒼々たる面々が名を連ねております。
 要蔵は時折、分家の桶町千葉道場の面倒も見ており、そこの塾頭はのちに日本の夜明けを演出した土佐の英雄・坂本龍馬でございます。
 千葉道場四天王ならば本来、たとえ直弟子であっても若い門弟に声をかけることはほとんどないといってもよい。だが、要蔵は竜馬のような若造にも気軽に声をかけるほど、よほど気さくな人柄であったと言えましょう。
 要蔵は江戸中の剣客が揃う大試合に初めて竜馬と出会った。その時には、孫ほど年の離れた五歳になったばかりの次男の虎尾を連れてきていた。

(要蔵)「そちが土佐の坂本龍馬という御仁か。なかなかの腕じゃのう」
 坂本龍馬は凛々しい虎尾をしげしげと見て・・・、
(竜馬)「この子が森先生のお坊んさんでっしゃろか」
(要蔵)「左様、 江戸中の剣客が集う大試合をぜひこの子に見せたいと思ってな」
(虎)「虎尾と申しまする」
(竜馬)「おまさんは、いまにこぢゃんと強ようなろう。顔にでちょるが」
(要蔵)「そうなら良かろうがのう。おまんさんのようにのう、うはっはっは・・・」

 初対面の要蔵と竜馬は、まさか、後に土佐と会津が敵同士になるなどとは、つゆぞ想像だにしなかったのでございます。
 さて、竜馬がのちに土佐藩を脱藩し浪人となったように、要蔵もまた熊本藩から脱藩し浪人の身となり、武者修業に諸国を巡遊するようになるとは、まことに皮肉なめぐり合わせでございます。脱藩の理由は一説によると、藩侯のお供先で飲酒が過ぎて寝坊をしてしまい、お供に遅れたという失態が原因であったのでは・・・と噂されておりますが定かではございません。
 以来、森要蔵は諸国行脚の旅へ出ることになります。
 ところが、そんな折の天保十一年、要蔵がちょうど三十歳のときに、たまたま上総の国飯野藩保科家(飯野藩は現在の千葉県富津市でございますが)、その保科家の江戸屋敷での御前試合で勝利をおさめたことから、腕の良さが認められ、保科家の剣術指南役に召し抱えられたのが飯野藩士としての始まりでございます。
 飯野藩とは、信州高遠藩から会津藩に国替えとなった保科正之公の保科家の分流で2万石という小藩でございました。会津藩の藩祖となった保科正之公は二代将軍・徳川秀忠公の隠し子であり、三代将軍・家光公とは異母弟でございます。そんなことから、生まれてまもなく高遠の保科正光公の養子として預けられたのでございます。
 保科正之公は成人するや家光公から松平家を名乗ることを許されておりましたが、会津藩23万石の大名になってもなお松平姓を名乗らなかったという、保科家に対する忠義心の深い律儀な方でございました。
 本流の保科家を祖先とし、京都守護職を仰せ付かった幕末戊辰の役の雄松平容保公は、会津藩祖・保科正之公より数えて九代目の藩主でございます。
 こうした本流にあって、上総の国飯野藩保科家は会津藩の分流として幕末を迎えたのでございます。
 飯野藩保科家に召し抱えられた森要蔵は、当初は高金七両・三人扶持、剣術指南のため別に一人扶持だったのですが、13年後の嘉永七年には、要蔵の扶持高は六十石にまで出世いたしました。そんな森要蔵には飯野藩主の後ろ盾もあり、江戸麻布永坂の飯野藩邸近くにて道場を構えることとなりました。
 森道場の評判は江戸にあってもたいしたものだったらしく、僅かの期間に門弟八百人を抱え、江戸では知らぬ者のない名門と言われるまでになったのでございます。巷では「麻布永坂目の下なるに、何故か保科さん森のかげ」と揶揄されるほど、要蔵の評判はうなぎのぼり。
 さらに、世間では「保科には過ぎたるものが二つあり、表御門に森の要蔵」と噂になりました。
 これは、保科家は表御門だけは立派だが他に誇るものは何もない。しかし、剣術指南役の森要蔵だけは保科家にはもったいないほどの優れた人物であるという意味で、いやはや大した評判でございます。
 さて、そんな折、安政二年十二月十三日、北辰一刀流の創始者・千葉周作が六十二歳で亡くなりました。当然ながら、森要蔵とて師匠・千葉周作であってみれば、ご焼香に赴かねばなりません。
 弔い日に、弟子の一番焼香をしたのは、御三家の水戸家に召し抱えられていたお玉が池の千葉道場時代の同僚、海保帆平でございます。
 翌日、要蔵は甲冑に身を固め、千葉周作の埋葬墓地である浅草・請願寺に馬を走らせ馳せ参じました。要蔵は到着するや否や馬上から・・・、

(要蔵)「拙者の焼香は飯野藩公の名代なれば、藩公の格式を以てご焼香いたしたいが差し支えなきや?」

 と葬儀係に尋ねたという。葬儀係は即座に・・・

(門弟)「差し支えござらぬ」、

 との返答を得るや否や、要蔵は馬上のままやおら棺の前に進みでる。

(要蔵)「ふ~ん、見渡すところ会葬者には大名一人もなし。森要蔵、保科弾正忠の格式を以て一番焼香いたす!」

 というが早いか棺に向かい・・・、

(要蔵)「汝周作、剣を以て天下に三千の俊傑を出す。感に堪へない! 保科弾正忠正益(まさあり)焼香いたす!」

 高らかに唱えて焼香するや、やにわ馬を返し海保に向いにらみつけた。

(要蔵)「海保帆平、その方、臣下の身を以て、昨日の一番焼香は無礼であろうぞ!」
 
 要蔵は、天下の剣豪の死に際して、一人の大名も出席しなかったのを悲しみ、馬上の焼香となったものであるが、さすがに、要蔵の胸中を知らない参加者は怒り出した。

(某藩家臣)「たとえ保科弾正忠正益の名代とはいえ、森要蔵なる者は不届き千万!」

 しかしながら、あらかじめ要蔵の出身藩である肥後・細川家から百五十人の家臣を集めており、事なきを得たと申します。一説には、このとき要蔵の身を固めた甲冑並びに裃は、飯野藩主の保科弾正忠正益(まさあり)公のものを借用したとも言われ、このことを聞いた保科正益公はいたく悦ばれたということでございます。
 かように、飯野藩剣術指南役・森要蔵はすこぶる逸話の多い人物でもございました。
 肖像画にもあるように、森要蔵は、長いあご鬚(ひげ)をはやし、剣客というより剣豪というに相応しく、まるで晩年の剣豪・宮本武蔵さがらの容貌でございます。千葉道場の四天王だけでなく、槍や弓矢をはじめ武芸十八般に長じ、“暴れ牛の角を掴(つか)んで倒した”などと話題に事欠かなかったのでございます。そんなことから、わずか2万石の保科家であったが、要蔵のおかげで保科家の江戸での評判は大変なものであったと申します。
 さて、幕末の動乱期にあって京都守護職を仰せ付かった会津藩主松平容保公は、朝廷を守るべき佐幕の藩主でございます。ちなみに、皆様よくご存じの近藤勇を組長とする新撰組は、会津中将・松平容保公のお預かりでございます。しかし、ことの成り行きから誤解が重なり、ついには朝敵とされてしまい、戊辰戦争においては西軍に抵抗して最後まで戦い通したのはよくご存知でございましょう。
 戊辰戦争が始まるや否や、本流会津藩の窮地を救うために、分流である飯野藩保科家にも参戦の命が下ります。しかし、家臣たちは不承知極まりない。要蔵は・・・

(要蔵)「本家筋の会津藩を救援するのが支藩の役目、飯野藩としてもそれが筋というものじゃ」
(家臣)「会津藩はたとえ保科家の本流とはいえ、あくまでも会津の話、飯野藩までも巻き添えになる謂れはない!」
(要蔵)「何を申される。本流が危ういとあらば、窮地を救うのが分流の役目でござろう!」
(家臣)「西軍の勢力からして、負け戦になるのは目に見えておる。おめおめ負けを承知で参戦する謂れはあるまい! まして、負け戦になれば飯野藩もお取りつぶしになる!」
(要蔵)「馬鹿もん!その方たちは保科家としての誇りがないのか!たとえ負け戦になろうとも、義を重んじるのが保 科家の生きる道ではござらぬか!」

 要蔵は、会津藩の窮地に参戦するよう藩士たちの説得を重ねるが、どうしても聞き入れられません。確かに、負け戦になれば加担した飯野藩にもお咎めがあろう。いや、藩のお取りつぶしも免れまい。それを避けねばならぬ家臣たちの気持ちも分からぬでもない。しかし・・・、会津に対する義を通すにはこのわしが藩とはかかわりなく参戦するしかあるまい。それには飯野藩を脱藩するしか方法しかあるまい。そう考えた要蔵は、遂に脱藩を決意したのでございます。
明治維新も間近に迫った慶応4年4月のことでございます。

要蔵は藩主に脱藩を申し出るとともに、二度とふたたび今生で会うことはないであろう妻や娘のふみとの別れのひととき・・・

(要蔵)「ふみ、せめて、そなたの嫁ぎ先を見定めてから会津に赴きたかったが、それもままならぬ。わしの亡き後 
 も、自から の行く末をしかと見定めながら生きるのだぞ。たとえ、剣術指南の娘であっても、剣の道に執心しすぎ ると生涯、女としての幸せは遠のいてしまう。そなたには良い伴侶が訪れるよう、祈るばかりじゃ」
(ふみ)「お父上、ふみは剣を生涯の伴侶として生きる積りでございます。虎尾、そなたも父上のような生き方がした いと、いつも・・・・」
(虎)「姉上・・・、虎尾は、もとより死は覚悟の上でございます。会津に同行できるのを誇りに思っています。姉上 だけにはどうしても幸せになってほしいと・・・」
(ふみ)「虎尾・・・・」
(要蔵)「めそめそするでない、盃じゃ・・・」

 要蔵親子はあふれ出る涙をじっとこらえ、気丈にも背筋を張りながら別れの盃を交すのであった。
 森要蔵は可愛い息子の虎尾と藩士や弟子一行を連れ、鶴ヶ城籠城戦に備え、秘かに会津に向かったのでございます。この時、要蔵は六十歳、息子の虎尾は十六歳であったと申します。
 要蔵は、当時にしては珍しく、あごから胸まで垂らした長い髭を生やしていたようでございます。そのひげが白くなり始めた頃に戊辰の役・会津の戦いが起きたのでございます。この時、要蔵は飯野藩主君保科正益(まさあり)と別れて会津入りし、自ら率いる守備隊を指揮しておりました。
 要蔵率いる守備隊は、飯野藩士八名と会津藩士十七名の合計二十六人の抜刀隊でございます。
 抜刀隊とは物陰や闇に乗じて敵に近づき、切り込む先陣の役であったり、斥候(せっこう)、つまり、味方本隊を補佐する役目でございます。よって多くの戦死者をだすのも抜刀隊でもありました。守備隊は当初、会津藩原田主馬の指揮下で大田原城攻防戦に参加、その後、白河口方面に出撃しましたが、次第に西軍に押し返され阿武隈川北方に引いて、必死の抵抗を続けていたのでございます。この間に逗留していたのが、西郷村羽太の橘家でございます。
 西軍との決戦を翌日に控えた慶応四年七月一日、森要蔵・虎尾親子はそれまで逗留していた羽太の名主・橘家に赴き、当主に深々と頭を下げ・・・

(要蔵)「大変お世話になり申した。明日は、いよいよ西軍との決戦の火ぶたが切られまする。勝敗は時の運とはいえ 敵の装備は近代兵器、負け戦も覚悟しなければなりますまい。運よく戻れればよいが・・・、何のお礼も出来ず申し 訳ござらん。これがお礼の代わりじゃ」

 要蔵は自分の小刀を当主に渡すや否や・・・

(要蔵)「虎尾、出立じゃ!」

 森親子はそそくさと橘家を後にしたのでございます。
 翌日、森要蔵隊は白河西北の下羽太に陣を敷いた。すでに白河小峰城は陥落しておりましたが、時折、御城下方面より砲声が響いてまいります。
 この時、西軍は会津を攻めるべく羽鳥街道を北進しようとしていた。羽鳥街道とは現在の呼び名で、昔は会津街道とも言われ、白河と会津若松を結ぶ重要な街道でございます。この街道に沿った米(よね)、柏野(かしわの)、羽太(はぶと)、虫笠(むしかさ)、真名子(まなご)の集落の八割が戊辰の役で焼失したと言われております。
 白河から会津に行く街道は羽太より直進し羽鳥から東山に出て会津城下に入る道と、羽太より右に迂回して勢至堂(せいしどう)峠、強清水(こわしみず)を経て会津城下に入る二本の街道がございますが、羽太地区はその二本の街道の分岐点で、それは、昔も今も変わりはございません。そのような場所に要蔵の軍は陣を張っていたのでございます。森要蔵親子を中心とした隊は粛々と前進し、阿武隈川と笹原川(これは現在の真名子川でございますが)合流付近にやってきてふと前方を見ると、阿武隈川対岸の朝靄の中、まさに川を渡ろうとしている西軍の姿が目に入った。

(要蔵)「幸い、敵はこちらに気づいていない。いいか、背を低くして前進するのだ」

 要蔵は手で合図しながら川岸の堤まで進みます。西軍の大将は土佐藩の板垣退助でございます。森要蔵隊の先頭には、常に要蔵と息子の虎尾の姿がございます。虎尾は白い陣羽織と義経袴を穿いた僅か十六歳の少年、父の要蔵が危うくなると息子の虎尾がかけつけ、息子が包囲されると父の要蔵がかけつけて囲みを破るといった必死の戦いを何度も繰り広げながら今日まで戦い抜いてきた。しかしながら、所詮、剣にすべてを託す抜刀隊、矢継ぎ早に繰り出す大砲の敵ではございません。火力に勝る西軍は会津藩を追い詰めていきます。
 突然、森要蔵の隊が動き出した。“うわ~!”と敵目がけて斬り込んでいく。要蔵親子の素早い動きは、まるで荒鷲が獲物目がけて天空から飛び降りる様子そのものでございます。抜刀した隊員が後に続きます。ダダーン、ドーン!ダダーン、ドーン!板垣隊の銃砲が炸裂する。そのとき板垣は・・・・ 

(板垣)「あの先頭の二人の動きはまるで鷺舞を見るようじゃ。誉れ高き稀有な武士じゃの。むやみやたらとその命を 奪ってはなるまい。銃撃を止め!」

 しかしながら、抜刀して西軍に斬りかかる要蔵隊のあまりの見事な戦いに、そのままでは戦況が変わってしまうと判断した板垣は、やむなく・・・

(板垣)「銃撃を再開始せよ!」

 今度は、板垣率いる一隊が森要蔵の守備する戦線に攻撃をしかけてきた。ダダーン、ドーン! ダダーン、ドーン!ドーン! 西軍の放つ砲撃音があたりの山々にこだまする。要蔵隊は素早く堤の陰に身を隠しますが、敵はジワリジワリと要蔵隊に近づいてまいります。

(要蔵)「ここまで追い詰められては残す戦法はただひとつ、敵の真っただ中に斬り込むしか方法はあるまい」

 その時である。突然、息子の虎尾は・・・、

(虎)「お爺さん、斬り込みますよ!」

 ひと声残し小太刀をかざして敵陣に吶喊(とっかん)した。

(要蔵)「まて!早まるな、虎尾、引け、引け!」

 西軍は、それが前髪のある若侍であることを知ると・・・、

(西軍兵士)「捕まえろ、生け捕りにしろ!」

 虎尾は西軍兵士に斬りかかる。西軍兵士は次々と斬り倒されていく。ダダーン、ドーン、ドーン!
虎尾が砲撃の連射で吹き飛ばされ、鮮血があたりに飛び散った。

(要蔵)「虎尾!」
(虎)「オ・・・、オ、ジ、イ、サン・・・」
(要蔵)「虎尾、虎尾! おのれ・・・、おぬしら、武士なら刀で勝負しろ!手向かう者はおらんのか!」

 要蔵も抜刀し激しく斬り込んでいく。鍛え上げた剣技で、荒れ狂う獅子のようにたちまち敵兵数名が斬り倒されていく。要蔵率いる二十数名も西軍に切り込み奮戦するも所詮多勢に無勢、敵の新式銃が矢継ぎ早に炸裂する。ダダーン、ダーン! 勝負は明らかであった。要蔵もまた、ついに敵の弾丸に打ち抜かれてしまいます。

(要蔵)「う、う・・・、ト、ト、ラ、オ・・・」

 二人は折り重なるようにして、息絶えたのでございます。
 虎尾は弱冠十六歳の生涯を終え、要蔵は六十歳、虎尾は要蔵が高齢になってできた子どものため、父の要蔵をいつも“おじいさん”と呼んでいたと申します。 そのため、誰もが孫と祖父だと思っていたようでございます。
 この有様の一部始終を見ていたひとりの敵軍の将・・・、

(敵将)「はてさて、この者はみちのく会津の言葉ではないがどうしたことか? なに! この者の言葉は江戸言葉とな。誰ぞ、この者を知る者はおらんか?!」

 土佐藩士の川久保南鎧という侍が、前に出て折り重なるように倒れている二人をじっと覗き込み、ハッと驚く。

(川久保)「おお!こ、これは・・・森要蔵先生!」

 やにわ、二、三名の兵が二人の亡骸に近寄り・・・

(兵)「こ、これは・・・、まさしく森要蔵先生・・・、せ、先生!」(涙声で叫ぶ)

 土佐藩士川久保南鎧と数名の兵たちは、かつて、江戸は麻生永坂の道場で要蔵から直接に剣術指南を受けた門弟たちでございます。慕っていた師匠の変わり果てた姿にその場にへたへたと座り込んでしまい、しばらく、誰ひとりとして、その場を動こうとしなかったのでございます。
 時折、阿武隈川から吹きあげる風が、倒れている虎尾の前髪を揺らし、要蔵の長く白いひげが要蔵の頬をなびかせていく。西軍の将は、目の前の屍が北辰一刀流の千葉道場四天王のひとりと言われた森要蔵であると知ると、静かに目を閉じて合掌したのち、近くの寺に手厚く葬ることを命じたと申します。時に、慶応四年七月一日のことでございました。
 この光景を会津藩家老山川大蔵の子供で白虎隊に所属し、のちに東京帝国大学の総長となった山川健次郎も目撃したと申します。山川は森要蔵・虎尾親子の話しをするたびに声が詰まり号泣したそうでございます。

 ♪ 千とせとも 祈れる人の はかなくも さらぬ別れに なるぞ哀しき (繰り返し)

 門弟の川久保南鎧は森親子の首を貰いうけ、森要蔵に教えを受けた土佐藩士とともに、下羽太の大龍寺に埋葬したのでございます。大龍寺には今もなお、森要蔵・虎尾親子とともに飯野藩士、会津藩士十数名が静かに眠っております。
 森要蔵は本来ならば、熊本藩細川家の家臣でございます。故あって脱藩し、縁があって飯野藩保科家の家臣に召し抱えられたゆえの会津藩への助っ人。それゆえに、凄惨な死を遂げねばならなかった運命とは・・・。もともと会津藩とは縁もゆかりもなかった身であってみれば、会津のために親子共々が壮絶な死を遂げることはなかったはず。人の運命とは不思議なものでございます。これこそは神のみぞ知るところでございましょう。
 およそ百五十年前、会津の白虎隊や二本松の少年隊の最期に匹敵する凄惨な戦いが、ここ西郷村にもあったとは・・ 那須連山や阿武隈川の清らかな流れが、美しい癒しの風景を醸し出している今日の西郷村であってみれば、とても当時の凄惨な光景は想像できないのでございます。
 この光景を目の当たりにした羽太の村人たちは、壮絶な戦いに負傷し、山陰に隠れていた会津兵たちをも手厚く介護したのでございます。その兵たちは、のちに村人への感謝の意を込め、その場所に桜を植えたと申します。今もその桜は春になると満開の花を咲かせ、訪れる人々の目を和ませてくれます。その桜の名は誰言うともなく、いつしか「戊辰桜」と呼ばれるようになり、その傍らに建つ米(よね)小学校では、その後「戊辰桜の歌」として合唱曲を作り、今日まで長く子供たちに唄い継がれているのでございます。
 さて、会津の戦いに参戦するにあたり、父との別れを惜しんだ森要蔵の娘のふみは、父・要蔵亡きあと、要蔵が指南した千葉道場の門弟・野間銀次郎の弟・野間好雄と結婚いたしました。当時では珍しく三十五歳という晩婚で、明治から大正を生きた女性で、性質もよく美人で優しい人であったと言われております。それでも、さすがに剣客の血を引くだけに、武芸の嗜みもあり、特に、薙刀、鎖鎌の達人で男も叶わぬ腕前であったそうでございます。 
 ふみは、当時の女性としては珍しく、漢学にも精通しており、明治の初期に夫とともに諸国を遍歴したのち,群馬県桐生(きりゅう)で道場を開き,大正十年に八十一歳で亡くなられました。二人の間に生まれたのが、皆さま御存じの出版社・講談社を創設した野間清治氏でございます。野間清治氏は屋敷内に剣道場を開設し、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め「剣道社長」と呼ばれた方でございますが、やはり、血筋は争えないものでございます。
 では、「戊辰桜」の合唱曲で会津藩随一の助っ人・森要蔵を偲びながら、立体講談「森要蔵、羽太に散る」の読み終わりといたします。

 ♪ 戊辰桜と 呼んでいる  美談の桜 咲き染めて
  小学校の 明るい窓に  其の花びらが ちらほらと
  樹齢は遙か 夢誘う  緑の丘に  春の歌

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